雨降り


その日はしとしとと雨が降っていた。まとわりつくようなその細かな水滴は、あまり気持ちのよいものではない。あいにく、今日は傘を持っていない。午後3時のオフィス街。少々早い帰宅にも、嬉しいとは思えないものがあった。
それは突然の出来事で、耳にしてからずっと頭の中をぐるぐると駆け巡っていて気持ち悪い。けれどあんなことを聞いたにしては冷静な自分を、意外に思う。あんなに怖いと思っていたのに、それは一瞬で終わってしまった。そう、それこそ、怖いなんて思う暇もないくらいに。雨は強くなっている。道行く人と肩が触れ合うたび、寒気がする。何故だろう?何故いま触れた人はあんなに冷たかった?
「ああ、そうか」
きっとこの雨が彼らの温度を奪ったに違いない。ぼんやりとそう考えつくと、ゆっくりと空を見上げる。無数に落下してくるその滴は、容赦なく瞳に飛び込んできた。視界がぼやける。というか、痛い。

「あっ、ごめんなさい!」
突然の衝撃に振り返ると、同い年くらいの若い女性。どうやらぶつかってしまったらしい。道端でぼうっとしていれば、まあ頷ける話だ。
「いいえ、こちらこそ」
軽く頭を下げて謝ると、足元で何かが光った。それに手を伸ばすように女性がしゃがむ。
「…ああ、もしかしてその時計、落としましたか?…すみません、止まってる」
女性は愛想の良い笑みを浮かべて濡れた時計を拾いあげると、首を小さく横に振った。
「あ、いいえ、大丈夫です。最初から止まっていたし…」
止まった、時計。そんな物を手に持っているなんて、不思議だ。
「そうですか…、本当にすみませんでした」
小さく一礼だけして、女性は小走りで去っていった。しばらくぼんやりと彼女の消えた方を見てから、小さなため息を吐く。既視感、なのか単なる錯覚、なのか。急速に現実に引き戻されて、背筋が凍る。

電話を受けたのは、今日の正午ごろだった。その日のその時間に電話が鳴ることはわかっていたから、すぐに応答した。
「もしもし」
電話の向こうの世界は静かだった。目の奥で白い色が浮かび上がる。
「もしもし?須藤か。悪いな、仕事中に」
電話の相手はごく自然な声だった。正直、その時にふと力が抜けた。安堵した。
「それはお互い様だろう。鹿島こそ、お疲れ様」
相手が小さく笑ったのが聞こえた。柔らかい笑い方だ。
「俺も今から向かうよ。1時間くらいで着けると思うから」
「須藤」
「うん?」
電話口にいるはずの彼の声は、少し強張ったものに変わっていた。
「…ありがとう。お前のおかげで、あいつは静かに逝けた」

階段を踏み外す感覚に似ていた。けれど、次に来るはずの鈍い痛みは一向に訪れなかった。足元はないのに落下もしない、浮遊したような感覚。絶望ではなく、空虚感。空っぽで、行く宛がない。失ったのだ。

雨は一層激しくなっていた。病院へ向かう道をわざと外して、のろのろと歩き続ける。ふと思い出して時計を見遣った。針は、午後3時を指したまま。幾粒もの水滴が文字盤に染みていた。水で壊れたのかとも思ったが、考えてみれば、昨日電池が切れたのだ。すっかり忘れていた。そのまま腕につけてくるなんて、間抜けな話だ。
「なるほど」
時計を軽く叩く。中の水滴が揺れる。きっと彼女もこうだった。電池が切れてしまった。温度を失って静かに瞳を閉じているであろう、彼女を想う。

夕陽が微かに差し込んだオフィス街。濡れたシャツの袖をめくり、動かない時計を握り、ゆっくりと病院を目指す。今度は真っ直ぐと、現実を歩いていく。







あとがき
確か三題噺の課題です。
お題は「雨」「時計」「電池」を選んだような。
突発的に書いたわりには暗くなって、なんか戸惑いました。
どうしたのかしら。


2007.05.22








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